ukiyo-e HISTORY 
1658~1764

菱川師宣が1658年~1673年に江戸に出て挿絵画家の群に加わり、
遊里と芝居町を中心とする悪所の風俗を描いて評判を得、
ついに鑑賞用の版画を独立させて浮世絵の基を開いた。

そして1683年、独自の人物画(美人画)様式を確立し、版画のみならず
肉筆画の量産にも力を尽くして、平民的な絵画を江戸の地に普及し発展させた。

師宣の没後は、菱川派の勢力が急激に衰え、1700年頃~1720年頃にかけては
鳥居派と懐月堂派が主力となって活躍した。 鳥居派の初代清信と2代清倍は、
丹絵期の版画を場として役者絵と美人画の両分野に勇壮あるいは優麗な人物像を描き、
懐月堂安度とその門弟は肉筆画に豊満な姿態と豪奢な着衣の立美人図を量産、
闊達な時代精神を反映した。 ことに江戸歌舞伎特有の荒事の演技を活写する鳥居派の
「瓢箪足蚯蚓描」と称される描法は、役者絵独特の描法として現代に至るまで踏襲されている。

菱川師宣 (浮世絵の基礎を開く。 人物画を確立し、 版画・肉筆画を量産。)

菱川師宣(浮世絵の基礎を開く。人物画を確立し、版画・肉筆画を量産。)

鳥居清信 (役者絵・美人画が人気に。)

鳥居清信(役者絵・美人画が人気に。)

1716年~1736年の享保年間以降の18世紀前半、紅絵、漆絵期は、
奥村政信が版画の、宮川長春が肉筆画のそれぞれ中心画家として活躍した。
ともに、描写は繊細の度を加え、詩的(文学的)情趣を伝えることに
意が注がれるようになってくる。
また政信は、自ら版元奥村屋を経営したように、企画力と実行力に富み、
版画表現の新機軸を次々と打ち出し、長期不況の時期にあってよく浮世絵の活況を持続させた。

例えば、西洋画の透視遠近法をいち早く取り入れて「浮絵」という新しい分野を開発したり、
画面の比率が極端に縦に長い「柱絵」とか、
3図分の細判を横につなげて一連とする三幅対物などを考案、流行させた。
その弟子の奥村利信、西村重長が政信と並行して活躍、
ほかに鳥居派様式を形成化させた2代清信、2代清倍らの役者絵が
一般の支持を集めて多産された。

長春の肉筆画は、美人立姿の掛幅画にとどまらず、
画巻や屏風に細やかな観察を行き届かせた風俗描写を展開、
人物の美容と衣装の美とを尽くし、季節の情感をしみじみと盛る浮世絵肉筆画のよき範例を示した。
この派の流れは孫弟子の勝川春章、さらには春章の弟子の葛飾北斎へと受け継がれ、
宮川、勝川、葛飾派という浮世絵肉筆画の本流を形成することになる。
紅摺絵期の宝暦年間(1751年~1764年)は、美人画の石川豊信、役者絵の鳥居清満が全盛で、
俳趣の濃い詩的な風俗表現が好まれた。

京都の風俗画家西川祐信の作風が慕われ、
その影響が明らかに認められるようになるのもこの頃からである。

奥村政信 (版画の中心画家として活躍。)

奥村政信(版画の中心画家として活躍。)

宮川長春 (肉筆画の中心画家として活躍。)

宮川長春(肉筆画の中心画家として活躍。)

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1765~1801

1765年の錦絵の創始は、その発端となった絵暦交換会で中心的な働きをした
鈴木春信を、一躍浮世絵界随一の人気絵師に仕立て上げた。
春信は中間色や不透明な絵の具を多用し、安定感のある配色に絶妙の感覚を発揮した色彩画家であった。
そして人形のように無表情な細腰の優しい男女を主人公として、
古典和歌の詩意を時様の風俗の内にやつし、あるいは伝統的主題を平俗に見立てるなどしながら、
浪漫的情調の細やかな風俗表現に一風を開いた。

春信画の夢幻的虚構性は、安永年間(1772年~1781年)に全盛の礒田湖竜斎がしだいに払拭し、
天明年間(1781年~1789年)の鳥居清長に至って、
浮世絵美人は現実的な背景のなかに解放されることになる。
清長の美人画像は八頭身の理想的なプロポーションをとらされ、大判二枚続、三枚続の大画面に、
安定感のある群像として構成されるようになる。

寛政年間(1789年~1801年)には喜多川歌麿が、
評判の遊女や町娘、あるいは身分、性状を特定された女性の上半身に視線を近づけ、
個性的な美貌のきめ細かな描写や、微妙な心理や感情の表現に新風を開いている。
浮世絵美人画は、これら春信、清長、歌麿の3巨匠によって成熟の頂点に達した感があり、
その余の画家は三者の個性的な様式にわずかな変容を加えたにすぎない。

例えば、春信様式に倣った司馬江漢、清長様式を慕った窪俊満、勝川春潮、歌麿様式を追った
栄松斎長喜どの諸家が並行して活躍をみせた。

鈴木春信 (錦絵の確立。)

鈴木春信(錦絵の確立。)

鳥居清長(美人画の人気を高める。)

鳥居清長(美人画の人気を高める。)

喜多川歌麿 (新たな表現を生み出す。)

喜多川歌麿(新たな表現を生み出す。)

一方、役者絵の方面では、
鳥居派の様式的描写が古様なものとして嫌われ、かわって似顔絵の風が盛んとなってくる。
1794年(寛政6年)正月から歌川豊国が『役者舞台之姿絵』と題する全身像のシリーズを、
5月からは東洲斎写楽が雲母摺大首絵の連作をそれぞれ発表、華々しくデビューした。
似顔表現を理想化の装いの内にくるみ込んだ豊国の役者絵は大衆的な支持を得るが、
残酷なまでに実像の印象をリアルに伝えた写楽画は受け入れられず、
翌年早々にはこの天才絵師の作画が中絶されてしまう。

役者絵も、写楽と豊国が活躍した寛政年間(1789年~1801年)に、
その古典的な完成の域にまで到達したものである。

ほかにこの時期の注目すべき成果は、歌川派の開祖の豊春による浮絵である。
政信らによる前期の浮絵よりも、いっそう西洋画の遠近表現を正しく理解し、
江戸の名所の自然景を現実感豊かに表した豊春の浮絵は、人々を合理的な視覚の世界に慣れさせ、
浮世絵の風景表現を大いに前進させたものである。

歌川豊国(似顔絵風の役者絵が人気。)

歌川豊国(似顔絵風の役者絵が人気。)

東洲斎写楽(リアルの人物画を追求。)

東洲斎写楽(リアルの人物画を追求。)

歌川豊春(先人よりも、遠近法を正しく理解し表現。)

歌川豊春(先人よりも、遠近法を正しく理解し表現。)

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1802~

中期において完成の域に達した美人画や役者絵は、
相変わらず浮世絵界の中心的な関心事であり続けたが、
様式的には生新な展開をみせることはなく、爛熟退廃の度を深めるばかりであった。

美人画は、豊国、国貞(3代豊国)らの歌川派や渓斎英泉らが活躍、
時代が下るにつれて短躯で猪首、猫背の濃艶にすぎる美人画像が標準となっていった。
役者絵においても歌川派が全盛で、おおげさに誇張された似顔表現がもてはやされ、
錦絵ばかりでなく絵本にも役者絵仕立が流行した。

様式展開に行き詰まりをみせた美人画、役者絵にかわって新しく開かれた分野に風景画と花鳥画、
それに武者絵や戯画、さらには横浜絵などの時事報道画があった。

風景画は、歌川派全盛の時流に英泉とともに抵抗した巨匠 葛飾北斎が、
洋風表現を積極的に取り入れてその端緒を開き、
天保初年(1831年~1833年頃)に発表した『冨嶽三十六景』の成功により定着させた。
1833年(天保4年)には彼を追うように歌川広重が『東海道五拾三次』(保永堂版)を出し、
これ以後しばらく両者の風景画競作時代が続く。

両者の作風は対照的に異なり、北斎の造形性を最優先させた厳しい景観と違って、
広重の風景画は現実の自然に近く詩的な情趣が横溢していて親しみやすい。
北斎と広重は花鳥画にも妍を競い合ったが、そこでも風景画と同様の作風の差がみられる。

歌川国貞・3代 豊国(歌川派が美人画・役者絵の主流に。)

歌川国貞・3代 豊国(歌川派が美人画・役者絵の主流に。)

渓斎英泉(美人画・風景画で活躍。)

渓斎英泉(美人画・風景画で活躍。)

葛飾北斎(美人画・役者絵に変わる新たな分野の風景画。)

葛飾北斎(美人画・役者絵に変わる新たな分野の風景画。)

歌川広重(北斎・広重の2大巨頭。)

歌川広重(北斎・広重の2大巨頭。)

勇壮な武者絵や風刺と滑稽のユーモアを盛る戯画は、歌川国芳の独壇場であった。
国芳はまた西洋画法にも明るく、風景画にも異彩を放っている。

国貞、国芳、広重らの弟子(貞秀、芳員、2代広重)は、
1859年(安政6年)に開港の新都市横浜に洋風の文物、風俗を取材して、
「横浜絵」と称する一分野を開拓、
新奇な題材とともに洋風表現や鮮やかな西洋絵の具を多用するなどして、錦絵の面目を一新させた。

また、最幕末には混乱した世相と荒廃した人心を反映するような月岡芳年らの「血みどろ絵」も出現、
浮世絵自体の末期的現象を露呈してみせた。


歌川国芳(戯画は、国芳の独壇場。)

歌川国芳(戯画は、国芳の独壇場。)


参考資料
・日本大百科全書(ニッポニカ)より抜粋
・国立文化財機構所蔵品統合検索システム『ColBase』より画像転載

※時代区分などについて
・本頁は、浮世絵の時代区分を初期・中期・後期と3つに分けているが、
 分岐の年に関しては、日本大百科全書の説明文を基にしています。

歌川国芳(戯画は、国芳の独壇場。)

歌川国芳(戯画は、国芳の独壇場。)